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東北関東大震災で、被災された皆様、及び、ご家族の方々、
心からお見舞い申し上げます。
一日も早く、心に平和が戻る日を、お祈りいたします。
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大地震から、一週間が経ちました。
一週間前の今頃、私は、黙々と歩き続けていました。
地震があったその時、
私は、いつものお仕事のオフィス(赤坂)にいました。
オフィスは、全員勢揃い(16名)。
実は、15時から、会社でささやかなパーティーを予定していたのです。
ロンドン本社の20周年のお祝い…会社の節目をお祝いする予定で、
特注の大きなバースデーケーキが運び込まれていた時でした。
私は私で、上司と立ち話をしていた時でした。
3月11日、午後2時45分頃、大地震発生。
今まで体験したことがないほど、長く大きい揺れ。
「すぐ落ち着くだろう」という期待を裏切り、どんどん大きくなっていく揺れ。
先日のNZ・クライストチャーチの大地震が、頭をよぎりました。
10年近く、今のオフィスにいますが、
物が倒れたり落ちたりしたのは、初めての体験です。
すぐに、石巻の友人に、メールを入れました。
両親には、会社の電話で安否確認をし、すぐ無事がわかりました。
ビルからの避難指示の放送が入りました。
それも、防災訓練以来です。
使う事はないだろうと思っていたヘルメットをかぶって、
7階から、階段を下りて、外へ退避しました。
(ただ、防災訓練と違ったのは、非常口に鍵がかかってたこと!)
私の会社には、もうまもなく完成する新・赤坂警察署があります。
どんなに頑丈に作っているか、ずっと上から見ていたので、
ここが一番安全だと、社員全員で、赤坂警察の方へ移動しました。
国道246号沿いにある新・赤坂警察署の近くには、
今まで見たことがない大勢の人であふれ返っていました。
私は、この時点から、Twitterで情報収集を始めました。
すぐに、JR・地下鉄が止まり、再開の目処が立たない情報が入ると、
社長命令で、午後4時頃に、帰宅命令が出ました。
私は、目黒に住む同僚と、赤坂見附→渋谷まで歩くことにしました。
大勢歩いていたこともあり、雨や強風も吹いていたこともあり、
一人ならば、30分くらいで移動出来る距離を、
1時間くらい、彼女とおしゃべりしながら、歩きました。
同僚とは、渋谷駅で午後5時半前に解散。
井の頭線の改札口へ移動すると、全て封鎖されていました。
その前には、すでに長くて太い行列が出来あがっていました。
ここで、私の選択する必要性が生じました。
このまま、いつ始まるかわからない井の頭線の再開を待つか、
久我山の家まで歩くか…
私は、何よりも、部屋のオーラソーマのボトル達が心配でなりませんでした。
私のボトル達は、ハーフサイズ(25ml)なので、
ボトル一個ずつは、ケースの中で固定されています。
しかし、ケース自体は、壁や何かで、固定されている訳ではありません。
なので、もし部屋に居る時に地震があったら、
私は、真っ先にボトルのケースを支えていたのです。
なので、早く部屋の惨状を確かめたくて仕方なくなり、
自然に、足が前に出て、西であろう方向を、あてどもなく歩き始めました。
この時、Twitterと共に役に立ったのは「iPhone」
iPhoneのデフォルトで入っているmap機能を使って、
渋谷から、久我山まで歩く決意をしました。
ただ、ご存知の方はわかると思いますが、
赤坂見附から久我山まで歩くのには、渋谷経由は、遠回りになります。
赤坂見附から四ツ谷・新宿方面に出た方が近かった。
「災害地図をチェックしておくべきだった」と思ったのは、言うまでもありません。
渋谷は、
交通の再開を待つ人、
バスやタクシーの列に並ぶ人、
地震を意に介していない人、
私のように歩くチョイスをした人
と、いろんな人がいました。
私は、その日、お客様と会う予定があったのでスーツを着ていましたが、
ヒールの低いロングブーツをはいていました。
最初は、パンプスでなくてヨカッタと思いましたが、歩いて2時間くらいで、
歩いているのが辛く感じるほど、足が痛くなりました。
「会社にシューズを置いておくべきだった」…これも後の祭りです。
道路は、どこも渋滞をしていました。
バスも、車も、バイクさえも、前になかなか進めない状態でした。
早く帰りたいならば、5時間程度の徒歩圏内であれば、
確実に、徒歩帰宅が早かったと思います。
私と同じように、徒歩帰宅を決意した人達。
多くの方が、私のように一人だったようです。
みんな、無言で早足で、一心不乱に歩き続けていました。
印象的だったのは、車も歩く人も、きちんとルールに従っていること。
こんな災害時に、無秩序になっている国は、よくニュースで目にして来ましたが、
日本人の冷静で、他人に迷惑をかけないという意識は、見事だと思いました。
特に、車のクラクションを一回しか、耳にしなかったこと。
一向に前に進まない車の方がイライラするだろうに、
歩道が狭い道路で、しかも暗闇で歩行者がよく見えない状況でも、
皆さん、徒歩帰宅の人に温かかったように思います。
特に、私が、歩道の白線の中を歩いているにも関わらず、
後ろから、クラクションを鳴らしてくる車がありましたが、
周りの冷たい視線を浴びていたのは、ドライバーさんの方でした。
「譲り合い」の気持ち。
この時点で、皆に芽生えてることに気付きました。
私は、足に激痛が走っても、信号以外は止まることなく、前に進み続けました。
歩き続けて、約3時間。
午後8時半前、久我山の我家に着きました。
歩きながら、部屋の惨状を、悪くイメージしていました。
というか、覚悟しておく必要があると思ったのです。
片付けの段取りも考えていました。
恐る恐る、祈りながら、部屋のドアを開け、明かりをつけました。すると…
私が朝出る時に見た光景と、ほとんど変わりない部屋が、そこにありました。
オーラソーマのボトルは、1本残らず、無事だったのです。
ボトルが入ったケースは、壁を支えに、立っていました。
揺れで、壁側に倒れ、そのまま、それが支えになったようでした。
それは、まるで、両手で、壁を支えに立っている人のように見えました。
次に心配だったのは、観音扉のキッチンの食器棚でした。
石巻の親友に、地震対策で「注意した方がいいよ」とアドバイスを聞いてたのですが、
その内…と思って、何も施していなかったのです。
どうやら、磁石が強いらしく、扉は開かなかったようで、
中で、背丈の高いグラスが2本、倒れていた程度で済みました。
背丈のあるドレッサーの棚も、2、3歩前進しているようでしたが、無事。
私は、不安感から解放されたこともあると思うのですが、
部屋のあらゆるものが愛おしく感じたので、
「みんな、これからも大事にするよ~」と言いながら、
一人ワンワン泣いてしまいました。
泣きながら、これがマゼンタの感じかと実感していました。
マゼンタのカラーの言葉は、「日常の小さな事への愛情」です。
この時から、どんなに自分の日常が恵まれてたのか、
何度も何度も、実感することとなりました。
同時に、きれいに無事だったボトル達から、言葉が届けられました。
「私達は、あなたの「場」を守った。だから、あなたは、やらねばならない。」
『オーラソーマを通じて、人々を癒していく』、自分の使命感はそこにあると強く感じました。
これが、私の一週間前の出来事です。
東北の方々の事を思えば、私が感じた恐怖なんて、小さいもの。
東北の方々の今を想えば、今の不自由を強いられている生活も、大したことはありません。
たしかに、東北の被災者の思いは、計り知れないものがあります。
しかし、それを共有出来ない訳ではないし、共感してはいけない理由もないと思います。
地震に遭ったからこそ、悲しみを分かち合える。
東北の為に、何が助けになるのか、自分の現実的な問題として本気で考えられる。
私は、そう思います。
私は、東北の惨状を見る度に、「B100 大天使メタトロン」ボトルが浮かびます。
今の段階では不謹慎かもしれませんが、
ニューヨークの9.11を思い起こし、
「ゼロからの再生」という言葉が浮かぶのです。
「大天使メタトロン」は、9.11の直後に生まれたボトル。
↑ゴメンなさい!正しくはB102「大天使サミエル」が9.11直後に生まれたボトルです(汗)4/5追記
上層がクリア、下層がディープマゼンタ。
どちらのカラーも、無限の可能性を意味します。
『神様は、乗り越えられない試練を与えない』
被災された皆さんに、今この言葉を伝えるのは、酷かもしれません。
でも、事実です。
私達の思いは、被災者の皆さんと、共にあります。
皆で一緒に、乗り越えましょう!
東北関東大震災で、被災された皆様、及び、ご家族の方々、
心からお見舞い申し上げます。
一日も早く、心に平和が戻る日を、お祈りいたします。
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大地震から、一週間が経ちました。
一週間前の今頃、私は、黙々と歩き続けていました。
地震があったその時、
私は、いつものお仕事のオフィス(赤坂)にいました。
オフィスは、全員勢揃い(16名)。
実は、15時から、会社でささやかなパーティーを予定していたのです。
ロンドン本社の20周年のお祝い…会社の節目をお祝いする予定で、
特注の大きなバースデーケーキが運び込まれていた時でした。
私は私で、上司と立ち話をしていた時でした。
3月11日、午後2時45分頃、大地震発生。
今まで体験したことがないほど、長く大きい揺れ。
「すぐ落ち着くだろう」という期待を裏切り、どんどん大きくなっていく揺れ。
先日のNZ・クライストチャーチの大地震が、頭をよぎりました。
10年近く、今のオフィスにいますが、
物が倒れたり落ちたりしたのは、初めての体験です。
すぐに、石巻の友人に、メールを入れました。
両親には、会社の電話で安否確認をし、すぐ無事がわかりました。
ビルからの避難指示の放送が入りました。
それも、防災訓練以来です。
使う事はないだろうと思っていたヘルメットをかぶって、
7階から、階段を下りて、外へ退避しました。
(ただ、防災訓練と違ったのは、非常口に鍵がかかってたこと!)
私の会社には、もうまもなく完成する新・赤坂警察署があります。
どんなに頑丈に作っているか、ずっと上から見ていたので、
ここが一番安全だと、社員全員で、赤坂警察の方へ移動しました。
国道246号沿いにある新・赤坂警察署の近くには、
今まで見たことがない大勢の人であふれ返っていました。
私は、この時点から、Twitterで情報収集を始めました。
すぐに、JR・地下鉄が止まり、再開の目処が立たない情報が入ると、
社長命令で、午後4時頃に、帰宅命令が出ました。
私は、目黒に住む同僚と、赤坂見附→渋谷まで歩くことにしました。
大勢歩いていたこともあり、雨や強風も吹いていたこともあり、
一人ならば、30分くらいで移動出来る距離を、
1時間くらい、彼女とおしゃべりしながら、歩きました。
同僚とは、渋谷駅で午後5時半前に解散。
井の頭線の改札口へ移動すると、全て封鎖されていました。
その前には、すでに長くて太い行列が出来あがっていました。
ここで、私の選択する必要性が生じました。
このまま、いつ始まるかわからない井の頭線の再開を待つか、
久我山の家まで歩くか…
私は、何よりも、部屋のオーラソーマのボトル達が心配でなりませんでした。
私のボトル達は、ハーフサイズ(25ml)なので、
ボトル一個ずつは、ケースの中で固定されています。
しかし、ケース自体は、壁や何かで、固定されている訳ではありません。
なので、もし部屋に居る時に地震があったら、
私は、真っ先にボトルのケースを支えていたのです。
なので、早く部屋の惨状を確かめたくて仕方なくなり、
自然に、足が前に出て、西であろう方向を、あてどもなく歩き始めました。
この時、Twitterと共に役に立ったのは「iPhone」
iPhoneのデフォルトで入っているmap機能を使って、
渋谷から、久我山まで歩く決意をしました。
ただ、ご存知の方はわかると思いますが、
赤坂見附から久我山まで歩くのには、渋谷経由は、遠回りになります。
赤坂見附から四ツ谷・新宿方面に出た方が近かった。
「災害地図をチェックしておくべきだった」と思ったのは、言うまでもありません。
渋谷は、
交通の再開を待つ人、
バスやタクシーの列に並ぶ人、
地震を意に介していない人、
私のように歩くチョイスをした人
と、いろんな人がいました。
私は、その日、お客様と会う予定があったのでスーツを着ていましたが、
ヒールの低いロングブーツをはいていました。
最初は、パンプスでなくてヨカッタと思いましたが、歩いて2時間くらいで、
歩いているのが辛く感じるほど、足が痛くなりました。
「会社にシューズを置いておくべきだった」…これも後の祭りです。
道路は、どこも渋滞をしていました。
バスも、車も、バイクさえも、前になかなか進めない状態でした。
早く帰りたいならば、5時間程度の徒歩圏内であれば、
確実に、徒歩帰宅が早かったと思います。
私と同じように、徒歩帰宅を決意した人達。
多くの方が、私のように一人だったようです。
みんな、無言で早足で、一心不乱に歩き続けていました。
印象的だったのは、車も歩く人も、きちんとルールに従っていること。
こんな災害時に、無秩序になっている国は、よくニュースで目にして来ましたが、
日本人の冷静で、他人に迷惑をかけないという意識は、見事だと思いました。
特に、車のクラクションを一回しか、耳にしなかったこと。
一向に前に進まない車の方がイライラするだろうに、
歩道が狭い道路で、しかも暗闇で歩行者がよく見えない状況でも、
皆さん、徒歩帰宅の人に温かかったように思います。
特に、私が、歩道の白線の中を歩いているにも関わらず、
後ろから、クラクションを鳴らしてくる車がありましたが、
周りの冷たい視線を浴びていたのは、ドライバーさんの方でした。
「譲り合い」の気持ち。
この時点で、皆に芽生えてることに気付きました。
私は、足に激痛が走っても、信号以外は止まることなく、前に進み続けました。
歩き続けて、約3時間。
午後8時半前、久我山の我家に着きました。
歩きながら、部屋の惨状を、悪くイメージしていました。
というか、覚悟しておく必要があると思ったのです。
片付けの段取りも考えていました。
恐る恐る、祈りながら、部屋のドアを開け、明かりをつけました。すると…
私が朝出る時に見た光景と、ほとんど変わりない部屋が、そこにありました。
オーラソーマのボトルは、1本残らず、無事だったのです。
ボトルが入ったケースは、壁を支えに、立っていました。
揺れで、壁側に倒れ、そのまま、それが支えになったようでした。
それは、まるで、両手で、壁を支えに立っている人のように見えました。
次に心配だったのは、観音扉のキッチンの食器棚でした。
石巻の親友に、地震対策で「注意した方がいいよ」とアドバイスを聞いてたのですが、
その内…と思って、何も施していなかったのです。
どうやら、磁石が強いらしく、扉は開かなかったようで、
中で、背丈の高いグラスが2本、倒れていた程度で済みました。
背丈のあるドレッサーの棚も、2、3歩前進しているようでしたが、無事。
私は、不安感から解放されたこともあると思うのですが、
部屋のあらゆるものが愛おしく感じたので、
「みんな、これからも大事にするよ~」と言いながら、
一人ワンワン泣いてしまいました。
泣きながら、これがマゼンタの感じかと実感していました。
マゼンタのカラーの言葉は、「日常の小さな事への愛情」です。
この時から、どんなに自分の日常が恵まれてたのか、
何度も何度も、実感することとなりました。
同時に、きれいに無事だったボトル達から、言葉が届けられました。
「私達は、あなたの「場」を守った。だから、あなたは、やらねばならない。」
『オーラソーマを通じて、人々を癒していく』、自分の使命感はそこにあると強く感じました。
これが、私の一週間前の出来事です。
東北の方々の事を思えば、私が感じた恐怖なんて、小さいもの。
東北の方々の今を想えば、今の不自由を強いられている生活も、大したことはありません。
たしかに、東北の被災者の思いは、計り知れないものがあります。
しかし、それを共有出来ない訳ではないし、共感してはいけない理由もないと思います。
地震に遭ったからこそ、悲しみを分かち合える。
東北の為に、何が助けになるのか、自分の現実的な問題として本気で考えられる。
私は、そう思います。
私は、東北の惨状を見る度に、「B100 大天使メタトロン」ボトルが浮かびます。
今の段階では不謹慎かもしれませんが、
ニューヨークの9.11を思い起こし、
「ゼロからの再生」という言葉が浮かぶのです。
「大天使メタトロン」は、
↑ゴメンなさい!正しくはB102「大天使サミエル」が9.11直後に生まれたボトルです(汗)4/5追記
上層がクリア、下層がディープマゼンタ。
どちらのカラーも、無限の可能性を意味します。
『神様は、乗り越えられない試練を与えない』
被災された皆さんに、今この言葉を伝えるのは、酷かもしれません。
でも、事実です。
私達の思いは、被災者の皆さんと、共にあります。
皆で一緒に、乗り越えましょう!
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by mika_0820
| 2011-03-18 18:35
| 東日本大震災